政府の緊急記者会見が終わっても、避難所の広間はしばらく静まり返ったままだった。
画面はいつものニュース番組へ戻っている。けれど、誰もテレビから目を離そうとしない。
人類の記憶と知識の一部が、失われている。
さっき聞いた言葉が、レイの頭の中で何度も繰り返されていた。
「……知識がなくなったって、どういうことなんだろう」
隣に座る父は、すぐには答えなかった。
広間のあちこちから、少しずつ声が上がり始める。
「俺、自分の名前も家も覚えてるぞ」
「仕事のことだって覚えてる。全部忘れたわけじゃないってことか?」
「じゃあ、何を忘れたんだよ」
誰も答えを持っていなかった。
自分が知っていたことを忘れたのなら、忘れたこと自体に気づけない。
レイは自分の記憶を確かめるように、ひとつずつ思い浮かべた。
父さん。母さん。家。学校。
そして、足元にいるルカ。
「にゃあ」
名前を呼ばれる前から分かっていたように、ルカがレイを見上げる。
レイはその頭をそっと撫でた。
「みんなのことは、ちゃんと覚えてる」
「ああ」
父が短く答える。
「ただ……失ったのが、そういう記憶じゃないとしたら」
父はそこで言葉を止めた。
放送でも、まだ原因も範囲も分からないと言っていた。今ここで考えても、答えが出るはずはなかった。
しばらくすると、テレビでは街頭でのインタビューが流れ始めた。
『忘れたって言われても、何を忘れたのか分からないですよ』
若い男性が困ったように笑っていた。
『家族のことも覚えてるし、会社の場所も分かる。でも、昨日まで何を当たり前に知っていたのかなんて、全部確かめようがないでしょう』
画面が切り替わる。
今度は年配の女性だった。
『怖いですよ。自分の中から何かなくなったのに、それが何なのか自分では分からないんでしょう?』
その言葉に、広間がまた静かになった。
レイは思わず自分の手を見た。
見た目は何も変わっていない。
頭の中にも、大きな穴が開いたような感覚はない。
だからこそ怖かった。
もし何かを忘れているとして。
それに気づくのは、その知識が必要になった瞬間なのかもしれない。
「父さんは?」
「ん?」
「何か、忘れた感じする?」
父は少し考えた。
「今のところは分からない」
「そっか」
「レイは?」
「僕も分かんない」
二人とも答えは同じだった。
ルカだけが何も気にしていないように、レイの膝へ顎を乗せた。
その温かさに触れている間だけは、世界が昨日と同じような気がした。
翌朝。
避難所の外には、昨日までとは違う空気が漂っていた。
亀裂の入った建物。ひび割れた道路。動いている信号と、消えたままの信号。
景色そのものは昨日と変わらない。
なのに、政府の発表を聞いた後では、すべてが違って見えた。
避難所の脇では、数人の大人が小型の発電機を囲んでいた。
「どうです?」
「……駄目だ」
作業着の男が、開いたカバーの中を見つめたまま首を振る。
「昨日までは動いてたんですよね?」
「ああ。燃料もある。壊れた部品も、たぶんここだ」
「じゃあ交換すれば――」
「それが……分からないんだ」
男の声が震えた。
「俺、こういうのを扱う仕事をしてたんだ。何年もだ。見れば分かるはずなんだよ」
男は工具を握ったまま、自分の手を見つめた。
「なのに、どう繋がってたのかが……出てこない」
近くにいた別の男が、紙のマニュアルを差し出す。
「説明書ならあります」
「読んだ」
「それなら――」
「読めるんだ。文字も分かる。でも……書いてある意味が頭に入ってこない」
誰も何も言えなくなった。
レイは少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
昨日の政府会見が、初めて現実の形になった気がした。
知らないのではない。
そこに知識があったことすら分かっているのに、その先へ進めない。
「父さん……」
「うん」
「本が残ってても、駄目なのかな」
父はしばらく考えてから答えた。
「まだ分からない。でも、もし今のが世界中で起きているなら……」
レイは止まった発電機を見る。
「壊れたものが、直せなくなる?」
父は何も言わなかった。
その沈黙が、答えのように感じられた。
発電機のそばを離れても、レイの耳には男の言葉が残っていた。
何年もやってきた。
分かるはずだった。
それなのに、分からない。
地震で機械が壊れただけなら、いつか直ると思えた。
道が塞がれても、瓦礫をどかせばいい。
電柱が倒れても、新しいものを立てればいい。
けれど、その方法を知っている人の頭から必要な部分だけが消えているのなら。
直すための人がいても、道具があっても、部品があっても。
元には戻せない。
避難所の外へ水を受け取りに行く途中、レイは道路の向かいにある小さな店に人だかりができているのを見つけた。

「なんだろ」
入口には手書きの紙が貼られていた。
《冷蔵品 持っていってください》
店内の照明は点いていた。
レジも動いている。
なのに、奥の冷蔵ケースだけが暗かった。
店主らしい男性が、ヨーグルトや飲み物を箱へ移している。
「電気は来てるんですよね?」
客の一人が聞いた。
「店には来てます。でも、これだけ動かなくなって」
「修理は?」
「朝から何人かに連絡してるんですけど……」
男性はそこで言葉を濁した。
「来てくれた人もいたんです。でも、分からないって」
ケースの中の商品はまだ冷たかった。
だから傷む前に配ることにしたのだという。
「昨日までなら、壊れたら直してもらえばよかったんですけどね」
店主は笑おうとした。
けれど、その顔は笑っていなかった。
レイは飲み物を受け取る人たちを見ながら、止まった冷蔵ケースへ目を戻した。
使えるものは、まだたくさん残っている。
町には電気もある。
水だって出る場所がある。
店も開けられる。
けれど、ひとつ故障するたびに、それが永久に失われるのだとしたら。
今は動いているものも、いつかは止まる。
その当たり前のことが、急に恐ろしく思えた。
昼になると、避難所の掲示板には新しい紙が何枚も貼り出されていた。
給水時間の変更。
配給品の受け取り方法。
通行できない道路。
そして、周辺の避難所から集められた安否情報。
レイと父は、人が少なくなるのを待ってから掲示板の前に立った。
香織の名前を探す。
何度見ても、何度指で追っても、知りたい情報は少なかった。
「昨日より増えてるね」
「ああ。別の避難所から情報が届いたみたいだ」
父は一枚ずつ、紙を確認していく。
ルカも二人の足元に座り、見上げている。
掲示板の前には、レイたち以外にも家族を探す人がいた。
「この名前、ありませんか」
「昨日はこっちの病院にいたって聞いたんです」
「子どもだけでも確認できませんか」
職員たちは届いた紙を何度もめくり、分かる範囲で答えていた。
情報は少しずつ集まっている。
それでも、地震から何日も経った今なお、名前の見つからない人は大勢いた。
避難所に登録せず親戚の家へ向かった人もいる。
怪我をして別の地域へ運ばれた人もいる。
携帯電話が使えず、連絡を取れないままの人もいる。
だから、名前がないことだけで何かを決めつけることはできない。
父も、それを何度もレイに話していた。
分かっている。
分かっているけれど。
紙のどこにも母の名前がないたびに、胸の奥が冷たくなる。
掲示板の端には、手書きの伝言も増えていた。
《無事です》《○○へ移動します》《探しています》
短い言葉ばかりだった。
誰かに届くことを願って残された文字。
レイはその一枚一枚を、見落とさないように目で追った。
レイは紙に並ぶ避難所の名前を見ながら、小さく息を吐いた。
「母さん……無事かな」
香織が今どこにいるのか、まだ何も分からない。
どこかへ避難できたのか。怪我はしていないのか。
レイには、それを確かめる術がなかった。
「レイ」
父が一枚の紙を指差した。
「明日は、北側を回ってみよう」
レイは顔を上げた。
「まだ確認できてない避難所?」
「ああ。向こうにも、この辺りから避難した人がいるらしい」
確かな手がかりがあるわけではない。
それでも、立ち止まる理由にはならなかった。
「行こう」
レイはすぐに答えた。
「……母さん、無事でいてほしい」
「……ああ」
父が頷く。
「明日も探そう」
「にゃあ」
ルカの声に、レイは少しだけ笑った。
夕方になると、避難所にはラジオから新しい情報が流れていた。
各地で復旧作業が続いていること。
一部の道路が通れるようになったこと。
電力が戻り始めた地域があること。
明るい知らせもあった。
けれど、その後には必ず別の言葉が続いた。
専門技術者が作業を継続できない地域がある。
故障した設備の復旧に見通しが立たない。
原因は調査中。
対応を協議している。
同じような言葉が何度も繰り返された。
「戻ってるのか、戻ってないのか分かんないな」
レイが言うと、父はラジオを見たまま答えた。
「両方なんだろうな」
「両方?」
「直せた場所もある。まだ動いてる場所もある。でも、直せないものも増えてる」
レイは昼間の店を思い出した。
「じゃあ、今動いてるから大丈夫ってわけじゃないんだ」
「ああ」
父は短く答えた。
それ以上は言わなかった。
レイも聞かなかった。
明日のことすら分からないのに、その先を想像するのが怖かった。
避難所の隅では、何人かの大人が小さな声で話していた。
「電気が戻れば何とかなると思ってた」
「俺もだよ」
「でも、電気だけ戻っても駄目なんだな」
その会話を聞きながら、レイは天井の灯りを見た。
点いている。
今はまだ。
その「まだ」という言葉を、昨日までなら考えもしなかった。
寝る前、レイは鞄の中をもう一度確かめた。
水。少しの食料。スマートフォン。充電できるうちに充電しておいたモバイルバッテリー。
そして、避難所でもらった周辺地図。
父が赤いペンで、これまで回った場所に小さな印をつけていた。
印は思っていたより多かった。
「こんなに行ったんだ」
「近いところは、だいたいな」
レイは地図を覗き込む。
それでも北側には、まだ印のない場所が残っている。
「母さん、そこにいるかな」
父はすぐには頷かなかった。
「分からない」
レイは地図から目を離さない。
「……うん」
「でも、確認するまでは分からない」
父の指が、北側の避難所をなぞった。
「だから行こう」
レイは頷いた。
希望があるから行くわけではない。
諦められないから探す。
今は、それしかできなかった。
足元で丸くなっていたルカが起き上がり、地図の上へ前足を乗せる。
「こら、そこ母さん探すとこ」
「にゃ」
まるで分かっているような返事に、父がわずかに笑った。
レイもつられて笑う。
ほんの少しだけ。
その時間だけ、不安が遠ざかった。
その夜。
避難所の広間の奥の照明が一列まとめて消えた、突然消えた。
誰かがスイッチを何度か押したが、灯りは戻らない。
「明日、見てもらおう」
そんな声が聞こえた。
以前なら、それで済んだ言葉だった。
けれどレイは、暗くなった天井を見上げたまま、昼間の発電機を思い出していた。
壊れたら、直せない。
ひとつ。
またひとつ。
今まで当たり前にあったものが、戻らなくなっていく。
地震で世界が壊れたのだと思っていた。
でも、本当に失われたものは、目に見えるものだけではなかった。
世界はまだ動いている。
けれどその世界は、昨日までと同じ場所には、もう戻れないのかもしれない。
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