緊急記者会見。
その言葉が流れてから、避難所の空気が変わった。
テレビの前に、人が集まり始める。
何か分かったのかもしれない。
この異変が何なのか。
どうすれば元に戻せるのか。
誰も口にはしなかったが、同じ期待がそこにあった。
レイも父の隣に座っていた。
会見が始まるまでの時間が、ひどく長く感じられた。
避難所にいる人たちは、それぞれ違う理由で画面を見ていた。
工場で働いている人。
病院に家族がいる人。
停電した家へ戻れない人。
仕事がいつ再開するのか分からない人。
レイの近くに座っていた男性が、小さく言った。
「原因さえ分かればな」
隣の女性が頷く。
「直し方も分かるかもしれないし」
誰もが、答えを待っていた。
レイも同じだった。
ただし、レイが欲しい答えはもう一つあった。
母はどこにいるのか。
政府の会見で、それが分かるわけではない。
分かっている。
それでも、世界の混乱が少しでも収まれば、捜索もしやすくなるかもしれない。
通信が戻れば、母から連絡が来るかもしれない。
レイはそんなことを考えていた。
足元のルカが身体を丸め直す。
青い模様が淡く揺れた。
レイは無意識にその背中へ手を置いた。
ルカはレイの足元にいる。
母は、まだ見つかっていない。
今日もいくつかの場所を回った。
名簿を見た。
病院でも聞いた。
安否情報が貼られた掲示板も、一枚ずつ確認した。
蒼宮香織。
その名前は、どこにもなかった。
父は帰ってきてからも、避難所の地図を何度も見ていた。
明日はどこへ行くか。
まだ確認していない場所はないか。
レイには、それを考えているのだと分かった。
「父さん」
「ん?」
「会見終わったら、明日の場所決めよう」
父はレイを見る。
そして、小さく頷いた。
「ああ」
レイはルカの背中を撫でた。
淡い青い光が、指の間からこぼれる。
テレビでは、各地の映像が流れていた。
止まった工場。
作業員が集まる変電設備。
病院の廊下。
暗くなった駅。
海外の研究施設。
どこでも、人が資料を広げていた。
マニュアル。
図面。
教科書。
パソコンに残されたデータ。
情報は消えていない。
それなのに、復旧は進まない。
画面が切り替わった。
一人の技術者が取材を受けていた。
『操作はできます。正常に動いている設備なら、今まで通り使えます』
男は一度、言葉を止めた。
『でも、壊れた設備を前にすると……その先が分からないんです』
別の映像。
白衣を着た医師が本を開いている。
何度も同じページを見返していた。
『書いてある文字は読めます』
『ただ……理解できないんです。以前は理解していたはずなのに』
避難所の誰かが呟いた。
「どういうことだよ……」
答える人はいなかった。
やがて画面の隅に、会見開始までの時刻が表示された。
あと十分。
避難所の話し声が少なくなっていく。
あと五分。
父が腕を組んだ。
あと一分。
レイはテレビから目を離せなくなっていた。
やがて映像が切り替わる。
政府関係者の説明を聞きながら、避難所の表情が少しずつ変わっていった。
最初は、真剣に聞いているだけだった。
やがて。
「待ってくれよ」
誰かが呟いた。
「思い出せないって、いつまで?」
別の場所から声がする。
「資料があるんだろ?」
「勉強し直せばいいじゃないか」
テレビの中でも、記者が同じ質問をしていた。
再教育は可能なのか。
記録から復元できないのか。
世界中の研究者が協力すれば取り戻せるのではないか。
レイもそう思った。
忘れたなら、もう一度覚えればいい。
学校の勉強だってそうだ。
忘れた公式は教科書を見直す。
父もテレビを見つめていた。
しかし、返ってきた説明は違った。
記録を見ても正常に再習得できない。
その瞬間。
避難所の空気が変わった。
単に「忘れた」のではない。
その意味を、全員が同時に理解し始めた。
長い机。
並べられたマイク。
その向こうに、数人の政府関係者が座っていた。
大量のシャッター音が鳴る。
中央の男が資料を開いた。
「それでは、現在確認されている一連の事象について説明します」
避難所が静まり返った。
「先日の大規模地震以降、国内の複数の分野において、専門的な知識および技術を想起できない事例が多数確認されています」
記者たちが一斉にメモを取る。
「当初は、災害による疲労、心理的負荷、通信や設備の損傷など、複数の要因が検討されました」
男は一度、資料へ目を落とした。
「しかし、その後の調査により、同様の事例が国内の広い地域で発生していることが確認されました」
画面の下に、日本地図が表示される。
いくつもの地点に印がついていた。
「さらに、各国政府および関係機関からも、極めて類似した報告が寄せられています」
日本地図が世界地図へ変わる。
赤い印が、世界中に広がっていた。
レイは息を呑んだ。
数日前、ニュースで見た海外の映像よりも、その数ははるかに多かった。
記者の一人が手を挙げた。
「原因は地震なのですか?」
男はすぐには答えなかった。
「現時点で、因果関係は断定できません」
別の記者が声を上げる。
「資料が残っているなら、再教育は可能なのでは?」
「その点についても調査を行っています」
男の表情がわずかに硬くなる。
「しかし、対象となる知識については、文書や映像などの記録を用いても、正常に再習得できない事例が確認されています」
避難所がざわついた。
「再習得できない?」
「じゃあ、どうすんだよ」
「直せないってことか?」
父は何も言わなかった。
レイも、言葉が出なかった。
テレビの中では質問が続いている。
「父さん」
レイはテレビを見たまま呼んだ。
「ん?」
「これって……直せないってこと?」
父はすぐには答えなかった。
画面では記者たちが次々に質問している。
「全部じゃない」
父はやがて言った。
「今動いてるものまで、すぐ使えなくなるって話じゃない」
「でも壊れたら?」
父は黙った。
その沈黙で十分だった。
レイは避難所を見回した。
天井の照明。
壁の時計。
テレビ。
スマホ。
今まで、そこにあることを気にしたことすらなかったもの。
壊れれば直す。
古くなれば新しく作る。
誰かができるから、自分は知らなくても困らなかった。
その「誰か」が、世界中で同時に分からなくなっている。
レイは十四歳だった。
社会がこれからどうなるのか、具体的には想像でのきない。
ただ。
昨日まで当たり前だったものが、当たり前ではなくなった。
それだけは分かった。
会見場では、別の記者が手を挙げた。
「確認させてください。これは、知識そのものを失ったということですか?」
中央の男は資料へ目を落とした。
「現時点では、そう断定できる段階ではありません」
「では、なぜ同じ作業ができなくなっているんですか?」
すぐに別の声が重なる。
「記録は残っています。専門書も設計図も残っている。それを使って復旧できない理由は?」
会見場がざわつく。
避難所でも、何人かが小さく頷いていた。
レイも同じことを思った。
忘れたなら、見ればいい。
分からないなら、もう一度覚えればいい。
学校の勉強なら、そうしてきた。
「父さん」
「ん?」
「覚え直せないの?」
父は画面を見たまま答えた。
「……それを今、聞いてるんだろうな」
テレビの中で、政府関係者が答える。
「各分野で再学習も試みられています。しかし、該当する内容については、記録を読んでも従来と同じ理解に至らない事例が確認されています」
避難所の後ろの方から声がした。
「どういうことだよ」
別の誰かが呟く。
「書いてあるのに分からないってことか?」
レイはルカの背中を撫でた。
指の間から淡い青がこぼれる。
いつもと同じ光だった。
朝から何度も見てきたもの。
その変わらない光を見ていると、少しだけ落ち着いた。
画面の向こうでは、記者たちがまだ手を挙げ続けていた。
別の記者が立ち上がった。
「この現象は、地震の被災地域に限られているのでしょうか」
政府関係者は首を横に振った。
「いいえ。大きな揺れが確認されていない地域からも、同様の報告があります」
避難所がざわついた。
レイも父を見る。
父は画面から目を離さなかった。
「じゃあ、地震で頭打ったとかじゃないんだ」
レイが小さく言う。
「少なくとも、それだけでは説明できないんだろうな」
父の声は低かった。
テレビの中では、海外から届いた報告件数が読み上げられている。
国が違っても、起きていることは似ていた。
昨日までできていたことが、今日はできない。
レイは自分の手を見る。
自分には何が残っていて、何がなくなったのか。
考えてみても分からなかった。
分からないこと自体が、少し怖かった。
避難所の前の方で、小さな子どもが母親に何かを聞いていた。
母親は困ったように首を振り、子どもの頭を撫でる。
大人にも答えがない。
レイはその様子を見てから、またテレビへ目を戻した。
今はただ、画面の向こうから続く説明を聞くしかなかった。
「どの分野が対象なのですか?」
「元に戻る可能性は?」
「生活への影響は?」
「原因は?」
質問が重なる。
政府関係者たちは、そのすべてに明確な答えを持っているわけではなかった。
分かっていないことの方が多かった。
それでも。
一つだけ。
各国の調査で、共通して確認されたことがあった。
中央の男が、改めてマイクへ向き直る。
「現在、各国と情報を共有しながら調査を進めています」
シャッター音が止まない。
「国や言語、年齢にかかわらず、共通する知識領域に同様の欠落が確認されています」
レイは眉をひそめた。
欠落。
その言葉の意味を考える。
男は続けた。
「これは、単なる設備故障や一時的な混乱ではありません」
避難所から音が消えた。
誰も動かなかった。
レイの手だけが、ルカの背中に触れていた。
青い光が、いつもと変わらずそこにある。
昨日まで当たり前だったものが、世界中で失われている。
なのに。
どこまで失ったのかさえ、人々はまだ分かっていなかった。
テレビの中の男が、一枚の資料を置いた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「現時点で、各国の調査機関が一致している見解をお伝えします」
レイは無意識に、ルカの背中を掴んだ。
父も画面を見つめている。
男は言った。
『世界中で、人々の記憶の一部が――失われています』

読み込み中…