レイは走った。
「ルカ!」
瓦礫を避け、狭い隙間へ回り込む。
青い光が、もう一度だけ揺れた。
「にゃ……」
弱い声だった。
けれど、間違いなかった。
崩れた板とコンクリートの向こうから、黒い体がゆっくりと姿を現した。
青い模様は埃でくすんでいた。
足取りも、いつものルカよりずっと遅い。
「ルカ……!」
レイがしゃがみ込む。
ルカは一度だけ立ち止まった。
そしてレイの顔を見ると、残った力を使うように駆け寄ってきた。
レイはその小さな体を抱き上げた。
「よかった……」
声が震えた。
「ほんとに……よかった……」
ルカは何も言わず、レイの胸へ顔を押しつけた。
いつもなら抱き上げられるとすぐに降りたがる。
今日は動かなかった。
淡い青い光だけが、レイの腕の中で静かに明滅している。
少し遅れて、父が追いついた。
レイはルカを抱いたまま、しばらく顔を上げられなかった。
胸に触れている小さな身体が温かい。
それだけでよかった。
「……ほんとに、お前」
声にしようとすると、喉が詰まった。
朝、玄関で交わした言葉が浮かぶ。
『帰ったら遊ぼう』
たった昨日のことだった。
いつものように言った。
帰れば当たり前に会えると思っていた。
「ごめん」
ルカの背中を撫でる。
「帰るの、遅くなった」
「にゃ……」
弱い声。
レイは唇を噛んだ。
「怖かったよな」
ルカは答えない。
ただ、レイの胸へ顔を押しつけたまま離れなかった。
普段なら、抱き上げて数秒もすれば自分から降りようとする。
気分じゃないときは前足でレイの胸を押すことさえある。
今日は違った。
レイが腕の力を少し緩めても、ルカはそのままだった。
父は二人のすぐ横まで来ていたが、何も言わなかった。
ただ、ルカの頭を一度だけ撫でた。
「……よく無事だったな」
その声も少し掠れていた。
ルカの青い模様が、ゆっくり明るくなる。
いつもの光だった。
暗い寝室を照らしてくれた光。
玄関でレイを見送った光。
瓦礫だらけの町の中で見ると、それは昨日までよりずっと綺麗に見えた。
「ルカ」
レイが呼ぶ。
青い目がこちらを見る。
「帰ろう」
言ってから、レイは少しだけ笑った。
家は壊れている。
母もまだいない。
それでも。
ルカは帰ってきた。
「ルカ……無事だったか」
父は息を吐き、ルカの頭をそっと撫でた。
ルカが小さく鳴く。
レイたちは、しばらくその場を動けなかった。
――けれど。
レイは顔を上げた。
「……母さん」
父の表情が戻る。
ルカは見つかった。
それでも、母はまだ見つかっていない。
父はスマホを取り出し、もう一度電話をかけた。
呼び出し音すら返ってこない。
「近くの避難所を回ろう」
父はそう言ってから、レイの腕の中のルカを見た。
「その前に、一度家に戻ろう」
父が言った。
「ルカに水とご飯もやらないとな」
「うん」
レイたちは、もう一度家へ戻った。
玄関は傾き、割れたガラスと細かな破片が床に散っている。
壁には大きな亀裂が走り、奥では天井の一部が落ちていた。
昨日まで暮らしていた家なのに、長くいる場所には見えなかった。
それでも、入れる部屋は残っている。
父が足元を確かめながら先に入り、レイもルカを抱いて続いた。
まず、ルカに水を飲ませた。
ルカは最初こそ勢いよく舌を動かしたが、途中で顔を上げた。
「もっと飲んでいいよ」
「にゃ」
次に、倒れた棚の奥からルカのご飯を探し出した。
袋の端は潰れていたが、中身は無事だった。
皿の代わりになりそうなものを見つけて出してやると、ルカはゆっくり食べ始めた。
レイはその場にしゃがんだまま、しばらく食べる様子を見ていた。
父が近くにあった布を濡らし、ルカの足についた埃を拭く。
「ここ、痛くないか?」
前足に触れると、ルカは嫌そうに足を引っ込めた。
「それはいつもの反応だね」
「じゃあ大丈夫そうだな」
「にゃ」
ほんの少しだけ、壊れた家の中にいつもの空気が戻った。
ルカが食べている間に、レイと父は使えそうなものを集めた。
レイは制服を脱ぎ、動きやすい服に着替える。
父もスーツから私服へ着替えた。
それぞれのリュックに、水、食べ物、着替え、タオルを詰めていく。
レイはルカのご飯も袋ごと入れた。
「それ、全部持っていくのか?」
「うん」
「重くなるぞ」
「ルカのだからいい」
父は何も言わず、自分のリュックにも水を一本追加した。
レイは部屋を見回した。
倒れた家具。割れた窓。落ちた天井。
余震が来るたび、どこかで小さく何かが崩れる音がする。
父も同じ場所を見ていた。
「……ここで寝るのは、やめた方がいいな」
「うん」
レイもすぐに頷いた。
「母さんを探しながら避難所を回ろう。夜は、そのどこかで寝よう」
「分かった」
食べ終えたルカが立ち上がった。
そのまま玄関へ向かうのかと思ったが、途中で足を止める。
母がいつもいた場所へ顔を向けた。
それから別の部屋を覗き、もう一度周囲を見回す。
「……ルカも母さん探してるの?」
ルカはレイを見上げた。
「にゃ」
レイは少しだけ笑って、リュックを背負った。
「じゃあ、一緒に探そう」
レイたちは家を出た。
最初に向かったのは、家から比較的近い公民館だった。
入口の前には、毛布を肩にかけた人たちが座っていた。
中には小さな子どもを抱く母親もいる。
壁には、避難してきた人の名前を書いた紙が何枚も貼られていた。
ルカはレイの足元に降りると、入口を行き交う人たちへ顔を向けた。
毛布の間を覗き込み、人が通るたびに耳を立てる。
レイには、ルカも同じ人を探しているように見えた。
レイは一枚ずつ目で追った。
蒼宮香織。
何度見ても、その名前はなかった。
父が受付の男性に声をかける。
「すみません。蒼宮香織という女性、こちらに避難していませんか」
男性は名簿をめくった。
「蒼宮……香織さん」
指が何度か紙の上を往復する。
やがて男性は首を横に振った。
「少なくとも、この名簿にはありません」
「そうですか……ありがとうございます」

外へ出る。
レイは何も言わなかった。
父も、すぐには声をかけなかった。
次は少し離れた中学校へ向かった。
最初の避難所を出たころには、ルカはレイの腕の中で眠っていた。
歩くたびに小さく揺れても起きない。
レイは何度も顔を覗き込んだ。
「寝てるだけだ」
父が言う。
「分かってる」
「さっきから何回確認してる」
「別にいいだろ」
父は何も言わず、少し笑った。
レイも自分で分かっていた。
呼吸しているか確かめてしまう。
見つけるまでの時間が、まだ身体に残っていた。
次の避難所へ向かう途中、ルカが目を開けた。
「起きた?」
「にゃ」
「歩く?」
ルカは腕の中から地面を見る。
そして、レイの胸へ顔を戻した。
「今日は抱っこがいいらしい」
「珍しいな」
「な」
レイは少し嬉しそうに笑った。
その笑顔が消えるまで、それほど時間はかからなかった。
次の避難所にも。
その次にも。
母の名前はなかったからだ。
それでも今度は、腕の中にルカがいる。
昨日の夜とは違う。
失ったと思ったものが、一つ戻ってきた。
だからこそレイは、母のことも諦めたくなかった。
道路はところどころ塞がれ、何度も遠回りをした。
ルカも歩いていたが、途中からまた足取りが遅くなった。
レイは黙って抱き上げた。
「今日は特別だからな」
「にゃ」
胸元で返事がする。
中学校の体育館にも、大勢の人がいた。
家族の名前を呼ぶ声。
張り出された名簿を食い入るように見る人。
無事を確認して抱き合う人。
そのすぐ隣で、俯いたまま動かない人。
レイは人の間を縫うように歩いた。
「母さん……」
名前はない。
父が職員にも確認した。
やはり、母は来ていなかった。
「次、行こう」
レイが先に言った。
父は一瞬だけレイを見て、頷いた。
三つ目。
四つ目。
近くで避難所になっている場所を、行ける限り回った。
そのたびに同じ名前を探した。
「蒼宮香織です」
「四十代の女性です」
「地震が起きたとき、外に出ていました」
けれど。
どこにもいなかった。
空が少しずつ赤くなっていった。
レイの足は重かった。
ルカを抱く腕にも力が入らなくなってくる。
父も疲れているはずだった。
それでもスマホを何度も確認していた。
画面には、母からの着信もメッセージもない。
「父さん」
「ん?」
「母さん……どこ行ったんだよ」
父はすぐに答えなかった。
少し先では、避難所の入口に新しい名前が書き足されている。
今も誰かが、誰かを探していた。
「分からない」
父は言った。
「でも、まだ探してない場所もある」
レイは俯いた。
「明日も探そう」
「もちろんだ」
迷いのない返事だった。
「母さんが見つかるまで探す」
レイは小さく頷いた。
その腕の中で、ルカが顔を上げる。
青い瞳が、レイを見ていた。
レイはルカの額に自分の額を軽く当てた。
「……一緒に探そうな」
「にゃ」
夕暮れの町に、小さな声が響いた。
ルカは戻ってきた。
けれど。
夕方、最後の避難所を出たところで、レイは一度立ち止まった。
腕の中のルカが身じろぎする。
「疲れた?」
「にゃ」
「僕も」
父が振り返った。
「今日は戻ろう。明日また早く出る」
レイは少し迷った。
まだ探せる場所がある気がした。
けれど、ルカの身体もまだ弱っている。
「……うん」
帰り道。
町は夕焼けに染まっていた。
壊れた屋根も。
割れた道路も。
その色だけは昨日までと変わらない。
ルカが腕の中から空を見る。
「母さんも、この空見てるかな」
父が隣を歩きながら答える。
「見てるかもしれないな」
「じゃあ同じだね」
「ああ」
レイは夕焼けを見る。
母がどこにいるのかは分からない。
それでも同じ空の下にいる。
今日は、それを信じることにした。
家へ戻ると、レイは自分の上着を畳んでルカの寝床を作った。
「今日はここ」
ルカは一度匂いを嗅ぎ、その上で丸くなる。
「僕の匂いするだろ」
「にゃ」
「安心する?」
ルカは目を閉じた。
レイはその隣へ座った。
母がいない家は静かだった。
それでも、昨日より一つだけ音が増えていた。
ルカの小さな寝息。
レイはしばらく、その音を聞いていた。
眠るルカを見ながら、レイは昨日の自分を思い出した。
体育館で何度名前を呼んでも返事はなかった。
今は手を伸ばせば触れられる。
レイはそっとルカの背中へ手を置いた。
青い光が指の隙間から漏れる。
「もう勝手にいなくなるなよ」
もちろん、ルカが好きでいなくなったわけではない。
分かっていても言いたかった。
ルカは目を閉じたまま、尻尾の先だけを動かした。
「返事した?」
もう一度、尻尾が動く。
レイは小さく笑った。
「じゃあ約束な」
明日はまた母を探す。
その次の日も。
今度はルカも一緒だった。
母は――まだ、どこにもいなかった。
父が眠ったあとも、レイは少しだけ起きていた。
ルカの寝息を聞く。
時々、青い模様が呼吸に合わせるように揺れる。
昨日の夜にはなかった光だった。
「おやすみ、ルカ」
小さく言う。
ルカの耳が動いた。
レイは目を閉じた。
明日は母を見つけたい。
今度こそ、母も一緒に、みんなで家へ帰りたかった。
レイは眠る前、もう一度だけルカを撫でた。触れれば温かい。その当たり前が、今夜は何より嬉しかった。
レイはようやく目を閉じた。
夜。
読み込み中…