海外でも、同じことが起きている。
そのニュースは、翌朝には町中へ広がっていた。
避難所でも。
給水所でも。
食料を受け取る列の中でも。
人々は同じ話をしていた。
「日本だけじゃないらしい」
「海外でも機械を直せないんだって」
「地震のせいじゃないのか?」
「でも世界中だぞ」
答えを知っている人はいなかった。
レイは父と並んで歩いていた。
ルカもその横をついてくる。
今日も母を探すためだった。
避難所の名簿。
病院。
臨時の安否確認所。
行ける場所には、できるだけ足を運んだ。
「蒼宮香織という女性を探しています」
父が名前を告げる。
職員が確認する。
そして、首を横に振る。
その繰り返しだった。
「……今日もいないね」
レイが言った。
父は少し黙ってから頷いた。
「まだ行けてない場所がある」
「うん」
レイは前を向いた。
ルカが足元で小さく鳴いた。
町では、別の確認も始まっていた。
復旧できない設備が増えたことで、技術者たちは一つの当たり前に行き着いた。
思い出せないなら、資料を見ればいい。
工場の事務所。
工場では、何冊もの資料が机の上へ積まれた。
「これならどうだ」
古いファイル。
設備を導入したときの資料。
過去の故障記録。
作業員たちが自分で書き残したメモ。
一つずつ開いていく。
《異常停止時は――》
そこから先を読む。
読める。
声に出すこともできる。
けれど、書かれている手順を頭の中で作業へ変換しようとした瞬間、意味がほどけていく。
「これ、俺が書いた字だ」
一人が言った。
余白に手書きのメモがあった。
癖のある文字。
間違いなく自分の字だった。
「じゃあ分かるだろ」
「……分からない」
「自分で書いたんだぞ」
「分かってるよ」
男の声が強くなる。
「分かってるけど、分からないんだよ!」
部屋が静かになった。
男はすぐに俯いた。
「……悪い」
誰も責めなかった。
同じことが、自分にも起きていたからだ。
机の上に、分厚い設備マニュアルが置かれていた。
昨日、機械の前で手を止めた作業員がページをめくる。
「これだ」
設備の名前が書かれている。
写真もある。
操作方法も書いてある。
そこまでは読めた。
ページを進める。
故障時の点検。
復旧手順。
作業員の目が止まった。
文字は見えている。
一文字ずつなら読める。
図も見える。
番号も、矢印も、記号もある。
なのに。
書かれていることが、頭の中で一つにつながらない。
「……なんだこれ」
隣の作業員が覗き込む。
「どこ?」
「ここ。読んでみて」
男は指で一行を示した。
隣の作業員が読む。
しばらくして、眉をひそめた。
「……読めるけど」
「分かる?」
答えはなかった。
別の人を呼んだ。
その人も同じだった。
紙が古いわけではない。
文字が消えているわけでもない。
誰かが書き換えたわけでもない。
そこに、必要なことは残っている。
それなのに、人間の側が受け取れなかった。
別の工場では、パソコンに保存されていた図面が開かれた。
ファイルは壊れていない。
図面も表示された。
寸法も見える。
部品の名前も読める。
だが、その部品をどう作っていたのか。
どう調整していたのか。
図面を見ても、誰にも分からなかった。
「設計した人を呼べないのか?」
「この図面を作った本人が、そこにいます」
部屋の奥に、一人の男が座っていた。
自分で作った図面を、自分で見つめていた。
何度もページを戻す。
何度も拡大する。
それでも。
男は、自分が何を考えてこの線を引いたのか思い出せなかった。

病院でも、同じように資料を開く人たちがいた。
学校でも、別の形で異変が話題になり始めていた。
避難所になった校舎には、教師たちが残っている。
ある教師が職員室で教科書を開いていた。
基礎的な内容は分かる。
生徒へ教えてきたことも覚えている。
けれど、専門的な資料の一部へ進むと、急に理解が止まる。
「先生でも?」
隣の教師が聞く。
「読めるんです。でも……」
ページを指でなぞる。
「ここから先、何を言ってるのか分からない」
「難しいってこと?」
「違う」
教師は首を振った。
「前は分かってたんです」
その言葉が、少しずつ世界中で繰り返され始めていた。
前は分かっていた。
前はできた。
昨日まで知っていた。
失くしたことに気づくには、失くしたものを使おうとする必要があった。
だから人類は、地震が起きたその瞬間にはまだ、自分たちが何を失ったのかさえ分かっていなかった。
病院では、手術室で手を止めた医師たちが、手術手順書や医学書を開いていた。
手術記録も残っている。
図もある。
文字も読める。
患者に手術が必要なことも分かる。
けれど。
切開する位置や、その後の処置を実際の動きとしてつなげようとすると、理解がほどけていく。
「昨日まで知ってたはずなんです」
若い医師が呟いた。
「勉強した。試験も受けた。何度もやった」
自分の手を見る。
「なのに……なんで?」
本を開いても。
手術記録を見ても。
データを探しても。
失われたものは戻ってこなかった。
そして、その現象も日本だけではなかった。
海外の大学。
研究所。
病院。
工場。
同じ報告が次々と集まり始めた。
記録は残っている。
それを作った人間も生きている。
それでも理解できない。
世界は、ようやく地震とは別の何かが起きていることを認め始めていた。
その日の夕方。
その日の捜索で、レイたちは小さな病院にも立ち寄った。
受付には安否を尋ねる人が並んでいた。
父が母の特徴を伝える。
年齢。
髪型。
服装。
職員は記録を確認した。
「申し訳ありません。該当する方は確認できません」
「そうですか。ありがとうございます」
また同じ答え。
外へ出ると、レイは病院の建物を見上げた。
窓の向こうを人が忙しく行き来している。
「母さん、怪我してないよね」
父は立ち止まった。
「分からない」
「……うん」
「でも、病院だけじゃない。まだ確認できてない場所もある」
レイは頷いた。
ルカが足元からレイを見る。
「行こう」
レイは言った。
世界が何を失ったのか分からなくても。
自分が探しているものだけは、はっきりしていた。
レイたちは避難所へ戻っていた。
母は、まだ見つかっていない。
父は壁に貼られた地図を見ていた。
明日、どこを探すか考えている。
レイは床に座り、ルカの背中を撫でていた。
テレビから、いつもより低い声が聞こえた。
『ここで、政府から発表がありました』
避難所にいた何人かが顔を上げる。
父もテレビを見た。
『世界各地で確認されている一連の異常について、政府は緊急記者会見を行うと発表しました』
ざわめきが広がった。
「何か分かったのか?」
「会見いつだ?」
「原因が分かったってことか?」
レイはルカを撫でる手を止めた。
画面の下に、赤い文字が表示される。
緊急記者会見。
父は何も言わず、その文字を見つめていた。
レイもテレビを見る。
何が起きているのか。
ニュース番組では、専門家たちが何度も意見を求められていた。
災害による集団的なストレスではないか。
通信障害による情報不足ではないか。
設備そのものが想定以上に損傷しているのではないか。
画面の中で、いくつもの可能性が語られる。
けれど、そのどれでも説明できない映像が増えていた。
外国の研究者が、自分の論文を前に首を振る。
工場の技術者が、自分で作った設備の図面を理解できない。
医師が、昨日まで扱っていた専門資料の前で手を止める。
国も。
言葉も。
職業も違う。
同じなのは一つ。
「前は分かっていた」
レイは避難所のテレビを見ながら、ルカの背中を撫でていた。
「忘れるって、こんな感じなのかな」
父が隣で画面を見る。
「分からない」
「僕、昨日食べたもの忘れることあるけど、そういうのと違うよね」
「たぶんな」
レイは少し考えた。
忘れたことなら、思い出すことがある。
誰かに言われて「ああ、そうだった」となる。
テレビの人たちは違った。
答えを目の前に置かれても、戻ってこない。
レイはルカを見る。
青い模様がいつも通り光っている。
変わらないものがそばにあることが、少しだけ安心だった。
ようやく、その答えが出るのかもしれない。
海外から届く映像の中には、ほとんど地震被害のないように見える場所もあった。
建物は立っている。
道路も大きく壊れていない。
それでも研究所の中では、人々が資料を囲んで立ち尽くしていた。
「ここも?」
レイがテレビへ身を乗り出す。
父も眉をひそめた。
もし地震で頭が混乱しただけなら。
もし日本の設備が壊れただけなら。
海の向こうで同じことが起きる理由がない。
画面が切り替わる。
別の国。
別の言葉。
字幕には、また同じ内容が出ていた。
《以前は理解できた》
レイはその言葉を見つめた。
「怖いな」
自分でも気づかないうちに口から出た。
父がレイを見る。
「うん」
レイは少し驚いた。
父が素直に怖いと言うことはあまりない。
「父さんも?」
「分からないものは怖いよ」
父はテレビへ視線を戻した。
「だから、まず何が起きてるのか知るしかない」
その直後だった。
政府が緊急記者会見を開くという速報が画面に出た。
避難所のあちこちで声が上がる。
レイも画面を見つめた。
答えが出る。
そう思った。
少なくとも、このときは。
会見の知らせが出ると、父はその時刻を確認した。
「それまでに戻ろう」
「捜索やめるの?」
「やめない。時間まで探す」
レイはすぐに頷いた。
二人はもう一つだけ安否確認所を回った。
そこにも母の名前はなかった。
帰り道、レイは少し早足になった。
会見が気になる。
母も探したい。
どちらも放っておけなかった。
避難所へ戻ると、テレビの前にはすでに人が集まり始めていた。
ルカはいつものようにレイの横へ座る。
世界中の人が答えを待っている。
レイもその一人になっていた。
テレビの前には、仕事着のままの人もいた。子どもを抱いた人もいた。誰もが、自分の生活に何が起きているのか知りたかった。レイは父の隣に座り、ルカを膝へ乗せた。母のことを考えながら、それでも画面から目を離せなかった。世界で起きていることが、自分たちの明日にも関わる。十四歳のレイにも、それだけは分かり始めていた。
会見の時刻が、少しずつ近づいていた。
避難所の空気も、いつの間にか昨日までとは違う緊張を帯びていた。
誰も答えを知らなかった。
夜。
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