「レイ、起きなさい。遅刻するよー」
一階から母の声がした。
返事はない。
数秒して、もう一度。
「レイー?」
やっぱり返事はない。
母はフライパンの火を弱めると、階段の方へ顔を向けた。
「ルカー。レイ起こしてきてー」
リビングのソファに丸くなっていた黒猫が、ぴくりと耳を動かした。
「ニャ」
まるで返事をするように一度だけ鳴く。
黒い身体がソファから飛び降りた。
床に着地した瞬間、身体に走る青い模様が、朝の薄暗い廊下に淡く浮かんだ。
ルカはそのまま階段を駆け上がっていった。
「ほんと、ルカの方が言うこと聞くんだから」
母が笑う。
食卓でコーヒーを飲んでいた父が顔を上げた。
「俺より?」
「あなたより」
「即答かよ」
母は笑いながら、焼き上がった目玉焼きを皿に移した。
二階。
ルカは閉まっていた寝室の扉の前で止まった。
前足を伸ばす。
とても器用にドアを開けるルカ。
「にゃあ」
反応はない。
「……んー……」
かすかな声。
レイの上に飛び乗るルカ。
「んにゃぁ」
「分かったって……」
寝癖だらけの黒髪。眠そうな青い目。
十四歳の蒼宮レイが、半分だけ開いた目でルカを見る。
「……おはよ、ルカ」
「にゃ」
ルカはレイの上に乗りながら身体を擦りつける。
青い模様が、ほんのりと揺れた。
レイはその頭を撫でる。
「母さんに頼まれた?」
「にゃ」
「やっぱり」
レイは大きくあくびをすると、ようやく身体を起こした。
ルカは役目を終えたつもりなのか、ベッドの上にちょこんと座ってレイを見ている。
「起きたよ。もう大丈夫」
「にゃ」
そう言われても、ルカは動かない。
「……下までついてくる気だろ」
ルカはベッドから飛び降りた。
「やっぱり」
レイが部屋を出ると、ルカもそのすぐ後ろをついてくる。
洗面所で顔を洗っている間も、着替えている間も。
少し離れたところに座って、ずっとレイを待っている。
それは今日に限ったことではなかった。
レイが家にいるとき、ルカはだいたいレイのそばにいた。
階段を下りると、焼いたパンと卵の匂いが漂ってきた。
「おはよう」
「やっと起きた。おはよう」
母が皿を並べながら振り返る。
「おはよう、レイ」
父もコーヒーカップを置いた。
「おはよ」
レイが椅子を引く。
その瞬間、ルカが先に飛び乗った。
「あ」
当然のような顔で椅子の真ん中に座るルカ。
「そこ僕の席なんだけど」
「にゃ」
「知ってるよね?」
「にゃあ」
「絶対わざとだろ」
父が吹き出した。
「今日はルカが学校行くんじゃないか?」
「じゃあ僕休んでいい?」
「ダメに決まってるでしょ」
母がすぐに返す。
レイはルカの身体を抱き上げ、自分の膝へ乗せた。
「はい、ここ」
ルカは不満そうに一度だけ尻尾を振ったが、そのまま丸くなった。
母がレイの前に朝食を置く。
「いただきます」
「いただきます」
レイがパンへ手を伸ばす。
同時に、膝の上から黒い前足がゆっくり伸びてきた。
「ルカ」
ぴたり。
前足が止まる。
「これはダメ」
ルカはパンを見た。
次にレイを見る。
もう一度パンを見る。
「見てもダメ」
前足が静かに引っ込んだ。
父がその様子を見て笑う。
「ほんとに言葉分かってるみたいだな」
「みたいじゃなくて、分かってるよ」
レイは当たり前のように言った。
「な、ルカ」
「にゃ」
「ほら」
「それ返事してるだけじゃない?」
母が笑う。
「じゃあ……ルカ、父さんのところ行って」
レイが言う。
ルカは顔を上げた。
数秒、父を見る。
そしてレイの膝から飛び降りると、父の足元まで歩いていった。
「おお」
父が少し驚く。
ルカは父を見上げた。
「にゃ」
「……俺のところ来たぞ」
「だから言ったじゃん」
どこか得意そうにレイが笑う。
「じゃあ次、母さん」
ルカは今度はキッチンへ向かった。
「はいはい。分かったから、朝ごはん食べなさい」
母は足元まで来たルカを撫でる。
「ルカもレイに付き合って大変ね」
「にゃあ」
「なんでそこで返事するんだよ」
レイは笑いながら、大きくあくびをした。
そのまま眠そうに首を少し傾ける。
すると、足元にいたルカも大きく口を開けた。
少し遅れて、レイと同じ方向へ首を傾ける。
母がそれに気づいた。
「あ、ルカ。またレイの真似してる」
「してないって。たまたまだろ」
レイが頬杖をつく。
ルカはレイを見上げると、その場に伏せて前足の上へ顎を乗せた。
「ほら、また」
「……マジじゃん」
父がコーヒーを飲みながら笑った。
「お前ら、ほんと似てきたな」
「僕がルカに似てきたみたいに言うなよ」
「にゃ」
まるで同意するようにルカが鳴く。
母と父が笑った。
家族の笑い声が、朝のリビングに広がった。

朝食を終えるころには、時計の針は思ったより進んでいた。
「レイ、時間」
母に言われて時計を見る。
「やば」
レイは慌てて立ち上がった。
鞄を肩にかけ、玄関へ向かう。
もちろん、ルカもついてきた。
靴を履いて振り返ると、ルカは玄関のすぐ手前に座っている。
「ルカ、学校はダメだからな」
「にゃ」
「昨日も途中までついてきたじゃん」
ルカは何も知らないような顔で首を傾げる。
「今日は家にいるんだぞ」
レイはしゃがんで、ルカの頭を軽く撫でた。
「帰ったら遊ぼう」
ルカの青い模様が、ほんの少しだけ明るくなった。
「……返事まで光でするようになった?」
レイが笑う。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい。気をつけてね。私もあとで出るから」
母の声。
「行ってらっしゃい」
父の声。
「にゃあ」
最後にルカ。
「はいはい。行ってきます、ルカ」
レイは玄関の扉を開けた。
外から朝の光が差し込む。
扉が閉まる直前まで、ルカはそこに座ってレイを見送っていた。
それは、いつもと変わらない朝だった。
家を出ると、いつもの朝が待っていた。
近所の家の前では、制服姿の生徒が自転車を押している。
通りの向こうでは、犬を連れた老人がゆっくり歩いていた。
コンビニの前には配送車が停まり、店員が荷物を運び込んでいる。
レイは鞄を肩にかけ直し、学校へ向かった。
途中、ふと後ろを振り返る。
当然、ルカはいない。
「……今日はちゃんと家にいるな」
昨日は家を出てしばらくしてから、後ろを振り返ると普通についてきていた。
結局、家まで連れて戻ったせいで遅刻しかけた。
思い出して、レイは小さく笑った。
学校に着くころには、そんなことも忘れていた。
「おはよ、レイ」
教室へ入るなり、クラスメイトから声が飛んでくる。
「おはよ」
鞄を机の横へ掛け、椅子に座る。
窓の外には、朝の青空が広がっていた。
「今日、一限なんだっけ?」
「数学」
「うわ、最悪」
「昨日も同じこと言ってたじゃん」
「数学は毎回最悪なんだよ」
そんなくだらない話をしているうちに、チャイムが鳴った。
先生が教室へ入ってくる。
授業が始まる。
黒板に数式が並び、ノートを取る音が教室に広がる。
レイは途中まで真面目に書いていたが、やがて窓の外へ目を向けた。
雲がゆっくり流れている。
今ごろルカは何をしているだろう。
ソファで寝ているか。
母の邪魔をしているか。
それとも、自分の部屋で勝手に寝ているか。
そんなことを考えていると――
「蒼宮」
「はい」
反射的に返事をする。
「今、どこやってる?」
「……えっと」
教室のあちこちから笑い声が漏れた。
「猫のことでも考えてたか?」
前の席の生徒が小声で言う。
「なんで分かったんだよ」
「お前、だいたいそうじゃん」
レイは苦笑しながら教科書へ視線を戻した。
放課後。
校門を出たレイは、朝と同じ道を家へ向かった。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
奥から母の声が返ってくる。
「おかえりー」
それより先に、廊下の奥から小さな足音が近づいてきた。
タタタタッ。
黒い影が勢いよく走ってくる。
「ルカ」
ルカはレイの足元まで来ると、そのまま身体を擦りつけた。
「ただいま」
レイがしゃがむ。
「ちゃんと待ってた?」
「にゃ」
「ほんとか?」
「にゃあ」
「じゃあ信じる」
レイはルカを抱き上げた。
母がキッチンから顔を出す。
「今日はいい子だったよ。玄関で何回か待ってたけど」
「ほら、やっぱり」
レイがルカを見る。
ルカは目を逸らした。
「今、絶対ごまかしただろ」
「にゃ」
「返事だけはいいな」
レイは笑いながら、そのままルカを抱いて二階へ上がった。
宿題をするときも、ルカは机の横。
ゲームをするときはベッドの上。
夕食になれば、レイの椅子のそば。
気づけば、いつもそこにいる。
夜。
風呂を終えたレイが二階へ上がる。
その後ろを、ルカがついてきた。
寝室の扉を開ける。
部屋は真っ暗だった。
レイは入口で足を止める。
「ルカ、お願い」
ルカがレイを見上げた。
次の瞬間。
黒い身体に走る青い模様が、ゆっくりと明るくなる。
淡い青色の光が床へ落ちた。
ベッドの脚が浮かび、机の輪郭が見える。
「ありがと」
レイはその光を頼りに部屋へ入り、壁のスイッチを押した。
ぱっと照明がつく。
「サンキュー、ルカ」

「にゃ」
ルカの光が弱くなり、いつもの淡い明るさへ戻った。
レイにとって、それは特別なことではない。
昔から、ルカはこうだった。
いや――。
昔からだっただろうか。
寝る支度を終えたレイは照明を消した。
暗闇の中、ベッドへ飛び乗ったルカの青い模様が、ぼんやりと浮かぶ。
レイの隣で丸くなる。
「ルカ、いつも綺麗だな」
ルカの耳がぴくりと動く。
レイは青い模様を指先でなぞるように撫でた。
「いつからだっけ?」
少し考える。
幼いころのルカは、今とは少し違っていたような気もする。
けれど、はっきりとは思い出せない。
毎日一緒にいるうちに、いつの間にかこれが当たり前になっていた。
「……もう忘れちゃったよ」
「にゃ」
「ルカも覚えてない?」
ルカはレイの顔をじっと見る。
そして何も答えず、レイの腕に頭を乗せた。
「そっか」
レイは笑った。
「おやすみ、ルカ」
「にゃあ」
部屋の中で、青い光だけが静かに揺れていた。
翌朝。
レイが目を覚ますと、最初に見えたのはルカの顔だった。
枕のすぐ横。
青い目が、じっとこちらを見ている。
「……近いって」
「にゃ」
「まだ母さん呼んでないだろ」
ルカは答えず、レイの頬へ前足を乗せた。
「起きる。起きるから」
レイが笑いながら身体を起こす。
カーテンを開けると、朝の光が部屋いっぱいに入ってきた。
ルカの青い模様は、昨夜よりずっと薄く見えた。
「今日はちゃんと起きたぞ」
一階へ下りると、母が少し驚いた顔をした。
「珍しい。今日はルカに起こされる前に起きたの?」
「起こされたよ」
「やっぱり」
父が新聞から顔を上げる。
「そのうち目覚まし時計いらなくなるな」
「もういらないかも」
レイが椅子に座ると、ルカもいつもの場所へ来た。
昨日と同じ朝。
同じ食卓。
同じ声。
何か特別な予定があるわけでもない。
レイはパンを食べながら、母と父のどうでもいい会話を聞いていた。
それがずっと続くものだと思っていた。
「行ってきます」
玄関で靴を履く。
「行ってらっしゃい」
母が言う。
「忘れ物ないか?」
父が言う。
「たぶん」
「たぶんって何よ」
レイは笑いながら扉を開けた。
足元では、ルカが昨日と同じように座っている。
「今日はついてくるなよ」
「にゃ」
「帰ったら遊ぼう」
レイはルカの頭をひと撫でして、家を出た。
学校。
午前の授業は、いつも通り退屈だった。
先生の声。
黒板を走るチョークの音。
ページをめくる音。
窓の外から聞こえる、体育の授業の笛。
レイは頬杖をつきながら、ノートへ文字を書いていた。
少し前の席では、誰かが小さくあくびをしている。
別の誰かは、先生に見つからないよう机の下でこっそり何かをしていた。
何も起きない。
何も変わらない。
ごく普通の一日だった。
壁の時計の秒針が進む。
午前十一時十六分。
先生が黒板へ新しい式を書き始めた。
レイはそれをノートへ写す。
十一時十七分。
カタ。
机の上のシャープペンが、ほんの少し転がった。
レイの手が止まる。
窓ガラスが、小さく鳴った。
「……地震?」
誰かが言った。
次の瞬間。
ドンッ。
教室そのものが、下から突き上げられた。
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