教室そのものが、下から突き上げられた。
「うわっ!」
椅子が大きく跳ねた。
レイは反射的に机へ手をつく。
その直後、横から強烈な揺れが襲ってきた。
机が床を滑る。
椅子が倒れる。
黒板の上に掛けられていた時計が激しく揺れ、教室のあちこちから悲鳴が上がった。
「机の下! 早く!」
先生の声が飛ぶ。
レイは机の下へ潜り込んだ。
頭を腕で覆う。
ガタガタガタガタッ!
窓ガラスが今にも割れそうな音を立てている。
ロッカーの中身が床へ落ちた。
教科書。
ファイル。
誰かの水筒。
床を転がってきたペンケースが、レイの机の脚にぶつかる。
「きゃあ!」
「やばい、やばいって!」
「動くな!」
先生の声も、揺れの音に飲み込まれていく。
レイは机の脚を掴んだ。
身体が左右へ振られる。
こんな揺れは知らない。
今まで経験した地震とは、何かが違う。
終わらない。
一度弱くなったように感じても、すぐにまた大きくなる。
そのたびに教室全体が軋んだ。
レイの頭に、朝の光景が浮かんだ。
母。
父。
そして――
「……ルカ」
小さく名前が漏れた。
家にいる。
ルカは家にいる。
母も、たぶん家にいる。
父は――。
どこにいる。
レイはポケットへ手を伸ばしかけた。
スマホ。
でも今、机の下から出す余裕なんてない。
「頼むから……止まれよ」
誰に言うでもなく呟いた。
やがて。
揺れが、少しずつ弱くなっていった。
ガタガタと震えていた窓も、ようやく静かになる。
教室に残ったのは、荒い呼吸と泣き声だった。

誰もすぐには動かなかった。
「……みんな、そのまま」
先生が息を整えながら言う。
「まだ出るな。怪我してる人いるか?」
「先生……」
前の方から震えた声がする。
「血……」
机にぶつけたのか、一人の生徒が額を押さえていた。
先生が近づこうとした、そのとき。
ぐらっ。
「また!」
再び教室が揺れた。
さっきほどではない。
それでも、全員が一斉に机の下へ身体を縮めた。
レイも歯を食いしばる。
数十秒。
揺れが止まる。
今度こそ、先生が立ち上がった。
「校内放送を待つ。勝手に廊下へ出るな」
そう言った直後。
スピーカーからノイズが流れた。
『――全校生徒に連絡します』
途切れ途切れの声。
『現在、大きな地震が発生しました。先生の指示に従い――』
ブツッ。
放送が切れた。
教室の照明も、一度だけ点滅する。
そして消えた。
「停電……?」
誰かが言った。
昼間の教室だから暗くはない。
けれど、天井の照明がすべて消えたというだけで、教室の空気が変わった。
先生が窓の外を見る。
レイも机の下から顔を出した。
校庭の向こう。
遠くの街から、細い煙が上がっていた。
一本ではない。
二本。
三本。
もっと遠くにも見える。
「……火事?」
教室が静まり返った。
先生はすぐに振り返った。
「全員、落ち着け。これから校庭へ避難する」
生徒たちは順番に廊下へ出た。
床には細かな破片が散らばっている。
壁にはひびが入っていた。
階段では手すりを掴み、一段ずつ下りる。
途中、また小さな揺れが来るたびに列が止まった。
外へ出る。
校庭には、すでに別の学年の生徒たちが集まっていた。
泣いている子。
友達と抱き合っている子。
スマホを握りしめている子。
先生たちが声を張り上げている。
「クラスごとに並んで!」
「走らない!」
「点呼するぞ!」
レイも列へ入った。
名前を呼ばれ、返事をする。
それが終わるとすぐ、スマホを取り出した。
画面には通知がいくつも出ていた。
けれど、通信状態を示す表示は不安定に揺れている。
まず母へ電話をかけた。
呼び出し音は鳴らない。
しばらくして、接続できないという表示が出た。
「……母さん」
もう一度。
同じ。
父へ。
繋がらない。
メッセージを送る。
《大丈夫? 学校にいる》
送信中。
表示はそのまま動かなかった。
レイは画面を見つめる。
家はここから歩いて帰れない距離ではない。
今すぐ帰れば――。
「蒼宮、どこ行く」
担任に呼び止められた。
「家、見に行きます」
「ダメだ」
「でも母さんとルカが家に――」
「今はダメだ。道路の状態も分からない。余震も続いてる」
「でも!」
思わず声が大きくなった。
先生は一瞬黙った。
それから、レイと目を合わせる。
「心配なのは分かる。でも今、生徒を一人で帰すことはできない」
レイは何も言えなかった。
分かっている。
先生が間違っているわけじゃない。
それでも、納得なんてできなかった。
校庭の隅へ座る。
スマホを見る。
まだ送信中。
画面を閉じる。
すぐにまた開く。
変わらない。
「レイ」
クラスメイトが隣に座った。
「家、連絡ついた?」
「つかない」
「俺も」
それだけ言って、二人とも黙った。
校庭のあちこちで、同じような会話が聞こえていた。
時間だけが過ぎていく。
余震は何度も来た。
そのたびに地面が揺れ、誰かが声を上げる。
昼を過ぎても、状況はほとんど分からなかった。
先生たちが集めた情報では、周辺の道路の一部が通れなくなっているらしい。
電車も止まっている。
信号も消えている場所がある。
携帯電話はほとんど繋がらない。
ただ、それだけだった。
どれくらい大きな地震だったのか。
どこまで被害が出ているのか。
誰も分からない。
午後になって、学校の中からラジオが持ち出された。
先生の一人が音量を上げる。
雑音。
途切れる声。
『――各地で非常に強い揺れが――』
『――建物の倒壊、火災が――』
『――余震に十分注意してください――』
断片的な情報しか聞き取れない。
それでも、生徒たちはラジオの周りへ集まった。
レイも耳を澄ませる。
自分の住んでいる地域の名前が出ないか。
何度も待った。
聞こえてこない。
「……母さん」
レイはまたスマホを見る。
電話は繋がらない。
メッセージも送信中のままだった。
地震が起きたとき、母は家にいなかったはずだ。
朝、出かける予定があると言っていた。
だから家には――ルカだけ。
そして、母が出かけたなら玄関には鍵がかかっている。
「ルカ……」
家の中で、どうしている。
家具が倒れていないか。
何かの下敷きになっていないか。
怖がっていないか。
外へ逃げることすらできないかもしれない。
考えれば考えるほど、じっとしているのが苦しくなった。
夕方が近づくにつれて、学校の様子が変わり始めた。
校門から、地域の人たちが次々と入ってくる。
子どもの手を引いた母親。
杖をついた老人。
リュックを背負った夫婦。
毛布や水を抱えている人もいる。
この学校が、地域の避難所になっていた。
校庭にいた生徒たちだけだった場所へ、町の人たちが増えていく。
先生たちは避難してきた人を体育館へ案内し、空いている場所を確認していた。
人が来るたび、レイは校門を見る。
母かもしれない。
違う。
また誰かが入ってくる。
違う。
その繰り返しだった。
周りでは、家族を見つけた人たちの声が聞こえる。
「よかった……!」
「無事だった?」
抱き合う人。
泣きながら名前を呼ぶ人。
レイも何度も立ち上がった。
けれど、母の姿はなかった。
日が傾き始める。
空が赤くなる。
それでも母は来ない。
スマホも繋がらない。
「なんで来ないんだよ……」
レイは校門を見つめた。
ここが避難所なら、無事なら来るかもしれない。
そう思って待っていた。
でも来ない。
そして家には、ルカがいる。
鍵のかかった家に。
「蒼宮レイ!」
校門の方から先生の声がした。
レイは勢いよく顔を上げた。
人の間を、一人の男が歩いてくる。
服は埃で汚れている。
髪も乱れていた。
額には小さな傷がある。
「……父さん!」
父がレイを見つけた。
その顔が、ようやく緩んだ。
「レイ!」
レイは走った。
「怪我は?」
父の両手がレイの肩を掴む。
「ない。父さんは?」
「俺も大丈夫だ」
「その傷は?」
「これくらい擦っただけだ」
父が額を指さした。
レイは大きく息を吐いた。
父は無事だった。
それだけで、胸の奥に詰まっていたものが少しだけほどける。
でも。
レイは父の後ろを見る。
誰もいない。
「……母さんは?」
父の表情が止まった。
「一緒じゃないの?」
「……まだ会えてない」
レイの喉が乾いた。
「連絡は?」
「何度もした。でも繋がらない」
「ここ避難所だよ。母さん、来てない」
「そうか……」
父も校庭を見回した。
「父さん、家は?」
「家の方へ行こうとした。でも途中の道路が塞がってた。火事も出てる。今は近づけない」
レイの顔から血の気が引いた。
「じゃあルカは?」
父がレイを見る。
「母さん、朝出かけたんだよね?」
「ああ」
「じゃあ家、鍵かかってるじゃん」
父は何も言えなかった。
「ルカ、家の中だよ」
「……ああ」
「逃げられないじゃん」
レイの声が震えた。
「家が壊れてたらどうすんの?」
「レイ」
「今から行こう」
「無理だ」
「でも!」
「俺も行こうとしたんだ」
父の声が少し強くなった。
レイが黙る。
父はすぐに声を落とした。
「道が通れない。余震も続いてる。暗くなったら、もっと危ない」
「でもルカが……」
「分かってる」
父の手がレイの肩に置かれる。
「母さんのことも、ルカのことも。俺だって今すぐ探しに行きたい」
その手が、わずかに震えていた。
レイは初めて気づいた。
父も怖いのだ。
母がどこにいるのか分からない。
ルカが家の中でどうなっているのか分からない。
同じだった。
「明るくなったら、行ける道を探そう」
父が言った。
「絶対に家まで行く」
レイは唇を噛んだまま、小さく頷いた。
夜。
体育館には、学校の生徒だけではなく、避難してきた地域の人たちが大勢集まっていた。
床にはマットや毛布が敷かれている。
非常用の照明だけが、薄暗く体育館を照らしていた。
あちこちから話し声が聞こえる。
泣き声。
誰かを探す声。
時々、床の下から伝わってくる小さな余震。
父とレイは並んで座っていた。
レイはスマホを見る。
母からの連絡はない。
画面を消す。
目を閉じる。
すると浮かぶのは、朝の玄関だった。
黒い身体。
青い模様。
自分を見上げていた青い目。
『帰ったら遊ぼう』
レイは毛布を強く握った。
家に帰れば、いつもルカがいた。
玄関を開ければ、走ってきた。
夜になれば、隣で青く光っていた。
今も。
あの家の中で、一人でいるのだろうか。
「……ルカ」
返事はなかった。
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