二人は、変わってしまった町へ歩き出した。
校門を出て、いつもの道へ向かう。
レイが毎朝、学校へ通っていた道だった。
けれど、数十メートルも進まないうちに足が止まった。
道路の真ん中が、大きく割れていた。
アスファルトが持ち上がり、向こう側との間に深い亀裂が走っている。
「ここ、通れないな」
父が亀裂の先を見る。
レイも覗き込んだ。
昨日までなら、家まで歩いてそれほどかからない。
でも今日は、その道をまっすぐ進むことすらできなかった。
「こっちから回ろう」
父が脇道を指さした。
レイは頷いた。
住宅街へ入る。
遠回りを続けるうちに、レイは自分が知っている道を何度も見失いそうになった。
曲がり角にあった塀が崩れている。
目印にしていた店のシャッターが歪んでいる。
いつも通っていた細い道には、倒れた物置が横たわっていた。
「こっちで合ってるよね」
「ああ。合ってる」
父が答える。
それでもレイは何度も周囲を見た。
毎日歩いていた町なのに、知っている景色が少しずつ別の形へ変わっている。
途中、小さな公園の前を通った。
ブランコは片方が外れ、地面には亀裂が走っていた。
昨日までなら、夕方になると小さな子どもたちが遊んでいた場所だ。
今は誰もいない。
レイは足を止めずに通り過ぎた。
家に近づくほど、胸の奥が騒がしくなる。
見たい。
でも、見るのが怖い。
家が無事なら。
母が帰っていたら。
ルカが玄関で待っていたら。
何度もそんな光景を思い浮かべる。
そのたびに、別の想像が割り込んできた。
レイはそれを振り払うように歩いた。
崩れた塀。
傾いた電柱。
道路へ飛び出した瓦や木材。
窓ガラスが割れた家もあれば、外から見ればほとんど昨日と変わらない家もあった。
その違いが、かえって不気味だった。
人が何人か、道路の上に立っていた。
家の前で名前を呼んでいる人。
倒れた自転車を起こしている人。
荷物を抱えて避難所の方向へ歩いていく家族。
町はなくなってはいなかった。
けれど、昨日までの町でもなかった。
レイは歩きながら、何度もスマホを見る。
母からの連絡はない。
「父さん」
「ん?」
「母さん、家に戻ってるかな」
「戻れる状況なら、戻ってるかもしれない」
「……そっか」
それ以上は聞かなかった。
父にも分からない。
分かっているのは、家へ行くしかないということだけだった。
しばらく進むと、また人だかりが見えた。
道の先に、倒れた電柱が横たわっている。
電線が道路を塞いでいた。
「こっちも駄目か……」
父が立ち止まる。
近くにいた男が声をかけてきた。
「向こうの細い道なら抜けられるみたいです。ただ、途中で家が崩れてて」
「ありがとうございます」
父が頭を下げる。
二人はさらに遠回りした。
レイはだんだん歩く速度を上げていた。
「レイ、急ぐな」
「でも」
「足元見ろ。ガラスだらけだ」
レイは足元を見る。
割れたガラスが朝日に光っていた。
「怪我したら家まで行けなくなるぞ」
「……分かった」
そう答えても、気持ちは先へ先へと走っていた。
細い路地へ入った。
そこには、壁の一部が崩れた家があった。
家の前で年配の女性が、一人で倒れた棚を動かそうとしている。
父が足を止めた。
「大丈夫ですか?」
「あ……すみません。中に薬があって……」
父はレイを見る。
一瞬だけ、レイは家の方向を見た。
早く行きたい。
ルカが待っている。
母だっているかもしれない。
でも。
「……手伝おう」
レイが言った。
父が頷いた。
二人で棚を持ち上げる。
完全には動かなかったが、人が通れる隙間ができた。
「ありがとうございます、本当に……」
女性が何度も頭を下げた。
「気をつけてください」
父がそう言って、再び歩き出す。
レイも後を追った。
少しだけ時間を使った。
それでも、見捨てて進むことはできなかった。
さらに進む。
時々、地面が小さく揺れた。
そのたびに二人は立ち止まり、周囲を見る。
崩れそうな壁から離れる。
揺れが収まってから、また歩く。
いつもなら何でもない距離が、ひどく遠かった。
やがて、見覚えのある交差点が見えた。
レイの足が速くなる。
「父さん!」
「ああ。ここまで来た」
この先を曲がれば、自宅のある通りだ。
レイは走り出しかけた。
その腕を父が掴む。
「待て」
「なんで!」
「まだ危ない。俺の後ろを歩け」
「でもルカが!」
「分かってる!」
父の声が響いた。
レイが止まる。
父は一度息を吐いた。
「……俺だって早く行きたい」
レイは父の顔を見る。
「母さんがいるかもしれない」
父も同じだった。
レイは黙って頷いた。
二人は角を曲がった。
自宅のある通りが見える。
レイは息を呑んだ。
何軒かの家は形を保っている。
塀が崩れただけの家もある。
屋根の一部が落ちた家。
壁に大きな亀裂が入った家。
そして。
「……家」
蒼宮家も、そこにあった。
完全には崩れていない。
けれど、無事でもなかった。
一階の窓が割れている。
外壁の一部が崩れ、玄関の周囲には瓦礫が散らばっていた。
レイが駆け出す。
「レイ!」
父の声も聞かず、家の前まで走った。
「母さん!」
父も家へ向かって声を張り上げた。
「母さん! いたら返事してくれ!」
返事はない。
「ルカ!」
返事はない。
「ルカ!!」
レイは割れた窓を見る。
カーテンが風に揺れていた。
窓枠には大きな隙間ができている。
猫なら通れる。
「……外に出た?」
父が追いついてきた。
「中にいるかもしれない。まず呼ぼう」
「ルカ!」
二人で何度も名前を呼んだ。
返事はなかった。
玄関は歪んでいた。
父が力を入れても、すぐには開かない。
「下がってろ」
何度か押し、ようやく人一人が通れるほどの隙間ができた。
「俺が先に見る」
「僕も行く」
「床がどうなってるか分からない」
「ルカがいるかもしれないだろ!」
父は少し迷った。
「……俺から離れるな」
二人は家へ入った。
昨日の朝まで、家だった場所。
食器が床に散らばっている。
棚が倒れている。
壁には亀裂。
リビングのソファも大きくずれていた。
レイはその光景を見つめた。
ここで昨日、朝ごはんを食べた。
母が笑っていた。
父がコーヒーを飲んでいた。
ルカがレイの真似をしていた。
ほんの一日前のことだった。
「ルカ……?」
レイは足元を確かめながら進む。
ソファの下。
テーブルの陰。
階段の近く。
「ルカ」
いない。
父は母の名前を呼びながら、一階を確認している。
返事はない。
父はスマホを取り出した。
画面を確認して、もう一度母へ電話をかける。
やはり繋がらなかった。
「……母さん、帰ってきてないんだね」
「ああ」
父は短く答えた。
レイは玄関の方を見る。
「どっか別の避難所に行けてればいいけど……」
「地震のとき外にいたんだ。家に戻れなくて、近くの避難所にいる可能性はある」
「……うん」
「今は、そう信じよう」
父はそう言ったが、スマホを握る手は離さなかった。
「二階は危ない」
父が階段を見上げる。
途中の壁が崩れていた。
レイは唇を噛む。
「ルカなら返事するよ」
「ああ」
「呼んだら、いつも来る」
「……ああ」
でも来ない。
レイはもう一度、割れた窓を見る。
「ここから出たんだ」
そう思いたかった。
家の中にいないなら。
外へ逃げた。
きっとそうだ。
「探す」
レイが言った。
「近くにいるかもしれない」
父も頷いた。
「遠くには行ってないはずだ」
二人は家の外へ出た。
家の中を探し終えても、レイはすぐには外へ出られなかった。
自分の部屋へ続く階段を見上げる。
壁が崩れ、途中には破片が落ちている。
二階には、自分のベッドがある。
昨夜までルカが隣で寝ていた場所。
「レイ」
父に呼ばれて、ようやく視線を戻した。
「……うん」
外へ出る。
玄関の前で、レイはしゃがんだ。
瓦礫の間に、小さな黒い毛が落ちていないか探す。
何もない。
足跡も分からない。
「ルカ、どっち行ったんだよ」
返事はない。
父は近所の人に声をかけて回った。
レイも反対側の家へ聞きに行く。
青く光る黒猫。
説明すれば、見ていれば忘れないはずだった。
けれど、誰も見ていなかった。
一軒。
また一軒。
答えを聞くたびに、レイの声が少しずつ小さくなる。
それでも次の家では、また同じように聞いた。
「黒い猫、見ませんでしたか?」
諦めるという選択肢だけは、最初からなかった。
「ルカー!」
通りを歩く。
「ルカ!」
近所の庭。
車の下。
崩れた塀の隙間。
レイは覗ける場所を片っ端から確認した。
「にゃーって返事しろよ!」
返事はない。
時間だけが過ぎていく。
近所の人にも聞いた。
「黒い猫、見ませんでしたか? 青い模様があって……光るんです」
「ごめんね、見てないわ」
別の人も首を振った。
レイはまた歩く。
父が後ろからついてくる。
「レイ、一回水飲め」
「あとでいい」
「駄目だ」
「でも――」
「倒れたら探せない」
レイは黙って水を受け取った。
一口だけ飲む。
すぐにキャップを閉めた。
「行こう」
捜索の途中、レイは何度も立ち止まった。
物音がするたびに振り返る。
瓦礫の向こうで何かが動いた気がすれば走った。
けれど、風で転がった空き缶だったり、崩れた布だったりした。
「ルカ!」
声を出す。
返事はない。
父も別の方向へ名前を呼ぶ。
「ルカ!」
普段なら、家の中で名前を呼べば面倒そうな顔をしながらも姿を見せた。
眠っていても耳だけは動いた。
「無視してんのかよ」
レイはわざと、いつもの調子で言った。
「出てきたら怒らないから」
少し待つ。
「今日だけは何しても怒らない」
返事はない。
「パン盗ってもいいから」
父が横から言った。
「それは駄目だろ」
「今はいいんだよ」
レイは笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「……だから出てこいよ」
最後の声だけ、小さくなった。
昼を過ぎた。
太陽が少し傾き始める。
探す範囲は少しずつ広がっていた。
レイの声もかすれてきた。
「ルカ……!」
何度呼んだか分からない。
返事はない。
頭の中に、嫌な想像が浮かぶ。
瓦礫の下。
倒れた家具。
逃げられなかったルカ。
「……違う」
レイは首を振った。
「絶対いる」
父は何も言わず、隣を歩いた。
やがて二人は、家から少し離れた細い道へ入った。
古い塀が崩れ、瓦礫が道の端に積もっている。
その先は建物の影になっていた。
レイは立ち止まる。
「……?」
何かが見えた気がした。
「どうした?」
父が聞く。
レイは答えない。
瓦礫の向こう。
暗くなった建物の隙間。
そこに。
ほんの小さな光があった。
青い光。
一度、弱くなる。
また、淡く光る。
顔は見えない。
姿もよく分からない。
それでも。
レイには分かった。
この世界で、その光を見間違えるはずがなかった。
「……ルカ!」

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