地震から数日が過ぎた。
町には、少しずつ明かりが戻り始めていた。
すべてではない。
夜になれば、まだ暗い通りの方が多い。
それでも、昨日まで消えていた建物に明かりがつくだけで、人々は足を止めた。
「あそこ、電気戻ったんだって」
「じゃあ、こっちもそのうちだな」
そんな声が聞こえる。
水が出るようになった場所もあった。
動く車もある。
店に残っていた商品を並べ直す人もいる。
町は、元に戻ろうとしていた。
少なくとも、みんなそう思っていた。
レイと父は、その日も母を探していた。
ルカも一緒だった。
避難所を回る。
掲示板を見る。
名簿を確認する。
「蒼宮香織という女性を探しています」
父は何度目か分からない同じ言葉を口にした。
受付の女性が名簿を追う。
少しして、首を横に振った。
「すみません。こちらには……」
「そうですか。ありがとうございます」
父は頭を下げた。
外へ出ると、レイは何も言わず歩き始めた。
ルカがその横についていく。
「……どこにいるんだろうな」
レイが呟く。
父はすぐには答えなかった。
「探そう」
少しして、それだけ言った。
レイは頷いた。
そのころ。
工場では責任者が別の作業員を呼んだ。
「お前、これ見られるか?」
「はい」
呼ばれた男は設備の前へしゃがむ。
操作盤を確認する。
電源を見る。
そこまでは迷いがなかった。
「動かないですね」
「だから原因を見てくれ」
「分かりました」
返事をして、工具箱へ手を伸ばす。
そして。
止まった。
最初の作業員と同じように。
「どうした?」
「いや……」
工具箱の中を見つめる。
知っている道具ばかりだった。
昨日まで使っていた。
だが、どれを取ればいい。
何を測ればいい。
どこを開けばいい。
考えようとすると、そこだけが霧の中へ入ったように掴めない。
「寝不足か?」
責任者が聞いた。
「……かもしれません」
男はそう答えた。
それ以外の理由が思いつかなかった。
地震からほとんど眠れていない。
家族のことも心配だった。
だから、頭が働かない。
その場にいた全員が、ひとまずそう納得した。
同じことが別の場所でも起きているとは知らずに。
町の別の場所では、昨日までとは違う混乱が始まっていた。
地震で停止した設備の前に、数人の作業員が集まっていた。
「動くか?」
「やってみます」
操作盤のボタンを押す。
ランプはつく。
けれど、設備は動かなかった。
「駄目です」
別の作業員が前へ出た。
「代われ」
同じ操作をする。
結果は変わらない。
男は操作盤を見つめた。
「……故障か」
そこまでは分かる。
だが、その先で手が止まった。
昨日、別の工場で起きたことと同じだった。
機械を使うことはできる。
正常に動く設備なら、いつも通り操作できる。
なのに、動かない設備を前にすると――その先が出てこない。
「おい。どうした?」
「いや……」
男は工具箱を開いた。
ドライバー。レンチ。テスター。
どれも知っている。
使い方も分かる。
それなのに、何を確認するために手に取ればいいのかが分からなかった。
「……なんだ、これ」
病院でも、似たことが起きていた。
病院では、それはもっと切実だった。
地震で崩れた建物から救助された男性が、救急搬送されていた。
腹部を強く打ち、出血が続いている。
医師は検査結果を確認した。
「このままじゃ危ない。緊急で手術する」
看護師たちが動き出す。
患者は手術室へ運ばれた。
手術灯が点く。
器具が並べられる。
麻酔の準備も進む。
そこまでは、いつも通りだった。
執刀医が手を差し出した。
「メス」
看護師が渡す。
医師はそれを握った。
そして。
手が止まった。
「……先生?」
看護師が声をかける。
医師は患者を見る。
状態は分かっている。
このままでは危険なことも分かっている。
手術が必要なことも分かっている。
手の中にあるものがメスだということも分かる。
なのに。
「……あれ?」
医師の目が揺れた。
「先生?」
「……ここから、どうしてた?」
手術室が静まり返った。
「何を……どこから……」
医師は自分の手を見る。
何度もやってきた。
昨日までなら、考えるまでもなく身体が動いていた。
それなのに。
切開する位置。
その先の手順。
処置の方法。
思い出そうとすると、そこだけが霧の中へ入ったように掴めない。
「代わります」
別の医師が前へ出た。
患者を見る。
メスを見る。
そして、その医師の手も止まった。
「……なんでだ」
誰も答えられなかった。
必要な器具も、手術室も、目の前にある。
それでも。
手術を始められる人間が、そこにはいなかった。

そして、同じような「できない」は病院だけではなかった。
通信設備でも。
電力設備でも。
専門的な作業の先で、人の手が止まり始めていた。
使い方は分かる。必要なことも分かる。
けれど、修理や高度な処置になると、その先が出てこない。
最初は、地震のせいだと思われた。
何日もまともに眠っていない。
強い揺れを経験した。
家族の安否が分からない人もいる。
疲労。
混乱。
ショック。
そう説明すれば、不思議ではないように思えた。
だが。
同じことを訴える人が、増えていった。
その夜。
夕方、レイたちは小さなスーパーの前を通った。
店は開いていなかった。
入口には紙が貼られている。
《安全確認のため休業します》
その横で店員らしい男たちが話していた。
「冷蔵庫、片方だけ駄目だ」
「電気来てるのに?」
「ああ」
「修理呼べないの?」
「電話が繋がらない」
レイは歩きながら振り返った。
昨日なら気にも留めなかった会話だった。
今は、町のあちこちで似た言葉を聞く。
動かない。
直せない。
分からない。
それでもレイの頭の大半を占めていたのは母のことだった。
世界で何かが起きている。
けれど十四歳のレイにとって、その世界より先に見つけたい人がいた。
レイと父は避難所のテレビを見ていた。
家の電気はまだ戻っていなかった。
ルカはレイの足元で丸くなっている。
画面には、地震被害のニュースが流れていた。
道路。
停電。
断水。
火災。
そして、復旧作業の遅れ。
『各地の復旧現場では、設備の故障原因を特定できない、あるいは復旧手順を思い出せないと訴える技術者が相次いでいます』
レイがテレビを見る。
父の表情が変わった。
『専門家は、大規模災害による疲労や強いストレスの影響も考えられるとして――』
映像が切り替わった。
海外の街だった。
崩れた建物。
止まった信号。
暗い駅。
画面の下に字幕が出る。
アメリカ。
次はドイツ。
その次は韓国。
地震の被害を伝えているのだと、レイは思った。
だが、アナウンサーが続けた。
『また、海外でも同様の報告が確認されています』
レイは父を見る。
「……同じ?」
父は答えなかった。
テレビでは、海外の技術者が止まった機械の前に立っていた。
工具を持ったまま。
何もできずに。
ただ、機械を見つめていた。
地震で壊れたのは、日本だけではなかった。
そして。
翌朝、工場では前日の作業員が責任者に呼ばれていた。
「昨日の設備、まだ駄目か?」
「すみません。なんか頭が回らなくて」
男は苦笑した。
「昨日ほとんど寝てないんで、そのせいかもしれません」
責任者も強くは言えなかった。
地震のあと、まともに眠れている人間の方が少ない。
「今日は無理するな。別のやつに見てもらう」
「すみません」
それで終わるはずだった。
別の作業員が設備の前に立った。
起動ボタンを押す。動かない。
「じゃあ中見ますね」
工具箱を開く。
数秒後、その手も止まった。
「……あれ?」
責任者が眉を寄せる。
「お前も寝てないのか?」
「いや、昨日は寝ましたけど……」
二人目の作業員は工具を見たまま首を傾げた。
「何から見ればいいんだっけ」
それでも、その場では疲労や混乱のせいだと考えられた。
大地震の直後だった。
普段と同じ状態の人間など、ほとんどいない。
ところが昼になるころ、別の工場からも似た報告が入った。
《設備停止。原因特定できず》
さらに別の工場からも。
《担当者が復旧手順を確認できず》
会社の担当部署は、最初はそれぞれ別の故障として記録した。
病院からは、緊急手術の手順を思い出せなくなったという報告まで上がった。
通信設備でも、電力設備でも、似た報告が上がり始めた。
「機械が壊れた」だけではない。
「専門家が、昨日までできていたことの先を思い出せない」
報告を並べたとき、初めてその共通点が見えた。
それでも、まだ理由は分からない。
夕方のニュースは慎重な言葉を使った。
『地震後、一部の専門職で、これまで行えていた作業ができなくなったとの報告が相次いでいます』
『強い疲労や睡眠不足、災害による心理的影響なども含め、原因が調べられています』
避難所でそのニュースを見た人たちも、最初は大きく反応しなかった。
「そりゃ、こんな地震のあとじゃな」
「俺だって頭回らないよ」
そんな声が聞こえた。
レイも画面を見たあと、すぐ父の持つ地図へ視線を戻した。
今日も母は見つかっていない。
今のレイにとっては、そのことの方がずっと大きかった。
レイの時間は、まだ母を探すことを中心に回っていた。
壊れたものを前に立ち尽くしているのも――日本人だけではなかった。
午後、父とレイは一度足を休めた。
公園のベンチは傾いていたので、二人は低い石垣に腰を下ろす。
ルカはレイの隣で丸くなった。
父が水を渡す。
「飲め」
「父さんも」
「飲んでる」
レイはキャップを開けた。
少し先では、作業服の男たちが話している。
「昨日から変なんだよ」
「何が?」
「直し方が出てこない」
レイは何となくそちらを見た。
父も聞こえていたらしく、一瞬だけ視線を向ける。
「最近ああいう話多いね」
レイが言う。
「ああ」
「地震って、そんなに頭まで変になるのかな」
父は答えなかった。
分からないことに適当な答えを出さない。
それが父らしかった。
「行こうか」
休憩を終え、また立ち上がる。
その日の最後の避難所でも、母はいなかった。
帰るころには空が暗くなり始めていた。
レイは疲れていた。
父も同じはずだった。
それでも翌日の行き先を相談した。
一方で、工場や病院や通信設備から上がった「分からない」という報告は、少しずつ集められ始めていた。
一件なら疲労。
十件なら偶然。
百件になれば、誰かが気づく。
何かがおかしい。
そしてその数は、日本だけで増えていたわけではなかった。
その夜、父はニュースが終わってもテレビの前から動かなかった。
レイはルカを抱き上げる。
「父さん、寝ないの?」
「もう少し見る」
「海外でも同じって、そんなに変?」
父はレイを見る。
「同じ地震が世界中で起きた。それだけでも普通じゃない」
「うん」
「そのあと、離れた国の人間まで同じように『分からない』って言い始めた」
父はテレビへ視線を戻した。
「偶然で片づけるには、ちょっと多すぎる」
レイも画面を見る。
何が起きているのかは分からない。
ルカが腕の中で小さく鳴いた。
レイはその頭を撫でた。
「明日は母さんの手がかり見つかるといいな」
父は少し間を置いてから答えた。
「ああ。明日も探そう」
世界の異変と、家族の捜索。
二つの不安が、初めて同じ夜の中に並んだ。
父とレイはしばらく無言でテレビを見た。画面の向こうでも、人々は同じように答えを探していた。
そして夜は静かに更けていった。
読み込み中…